主な作品歴を詳しく知りたい





















昭和23年3月 福岡県飯塚市で生まれる。
昭和40年3月 福岡県立嘉穂東高校を卒業する。
以後浪人生活をしながら本ばかり読んで、その間東京のジャズ喫茶で看板を描いたり、津屋崎の海のそばに下宿をして海に潜ったりの毎日だった。
3年あまりが過ぎて、ドストエフスキーの作品に親しむにつれロシア熱が高まり、代々木にあった日ソ学院本科生となりロシア語を学び始める。
ロシア語を学ぼうとするが、学生運動華やかりし頃で過激派などさまざまな人と出会い、酒を飲んだり麻雀やらで忙しく、ロシア文学はもっぱら日本語訳で読んでいた。

主な作品歴
1978年 映画『純』(プロデューサー) カンヌ映画祭批評家週間オープニング上映
1981年 映画『モーニングムーンは粗雑に』(プロデューサー) 
1984年 映画『パンツの穴』(脚本・製作)
1986年 映画『熱海殺人事件』(プロデューサー)
1987年 映画『やるときゃやるぜ!』(製作)
1988年 映画『恋はいつもアマンドピンク』(プロデューサー)
1988年 映画『満月のくちづけ』(社長)
1990年 映画『曖・昧・ME』(企画)
1991年 映画『雪のコンチェルト』(監督・脚本)
1995年 映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』(製作総指揮)
1997年 書籍『筑豊原色図鑑』((責任編集)
2004年 映画『すかぶら』(監督・脚本) 準備中

マネージャーからプロデューサーへ

東映京都撮影所で浜木綿子さんと



















僕は東京と筑豊を行ったり来たりしていた。
学園紛争もいつのまにか終わってしまい、みんなそれなりに就職をして収まるところに収まった具合で、日本や日本人の未来をまじめに考えていた僕は取り残されたような気分だった。
僕は26歳のとき、グループ71という事務所に入った。
女優の高橋洋子さんが「水谷豊という若い俳優はいい」といった一言が決め手で、グループ71のマネージャーになった。当時、水谷豊は『傷だらけの天使』というテレビドラマでどんどん人気が出始めていた。
グループ71には、他にも浜木綿子・谷隼人・渡辺篤史・葦原邦子や東映・日活系の悪役俳優など20人あまりが所属していて、ここでの経験がその後の僕の基本的な考え方を形作っていった。

6年余りマネージャーを経験した。

僕は、マネージャーからプロデューサーになるという道を歩めたことを、とてもラッキーだったと思っている。
今考えても、僕はもっとも自分が最も気に入ったコースを歩んできたといえる。
僕は、幼馴染の横山博人監督の影響を受けて、俳優のマネージャーから映画プロデューサーへの道を目指した。
どこにでも出入りしやすい、あるいは目立たない特権をいかして、映画製作会社、テレビ局、音楽・出版業界などに出入りしながら、才能のある友人たちと出会っていった。
初プロデュース作品となった映画『純』(監督:横山博人)のときは、29歳でバリバリの現役マネージャーだった。有名俳優を抱えてプロデューサーに名を連ねるのではないという強い誇りを持っていたが、実際は、はじめてのプロデューサーとしての現場に戸惑うばかりだった。
以後、十数本の映画を直接・間接に手がけていくが、一本の映画の企画から公開までに関わる仕事が多く、その一本一本に映画の内容とは別の物語があって、このホームページの中でゆっくり記憶を辿りながら書いていきたいと考えている。


監督・脚本・プロデューサー・社長業を兼ねた

監督作品「雪のコンチェルト」の現場


マネージャーからプロデューサーになり、いくつかシナリオを書いてきて最初に監督した作品が『雪のコンチェルト』で、この作品を公開した後に故郷・筑豊に戻ることになった。
このとき僕は、監督・脚本を担うと共に社長であり、映画づくりにおいて結局社長業を最優先してしまった。
このことを、他人からとやかく言われる覚えはないが、僕自身は深く反省するばかりである。
次に監督する機会があれば、自分自身にリベンジするつもりだ





いったん東京生活とおさらばする

銀座で娘と







1992年の夏の終わりに、突然のように僕は20年あまりの東京生活を捨てて、故郷の筑豊に家族を伴って戻った。
衝動的ではなかったが、誰の言うことも聞かないような強い衝動が東京の磁力を上回った。いくつも理由がある。東京生活のすべてが理由だったといってもよい。
僕は映画を作りたいがために当然のように東京に住んでいたが、長い間生活をしていながら、まったく生活者としての意識を持つ事が無い人間だった。
40歳になったときにはじめて子供ができた。ここから、なれない生活者というもののインストールが始まった。40歳といえば映画界の中でも、まもなくベテランの域にさしかかろうかという年齢だ。僕には、生活のために姑息な手段を使ったり、ごろつきのような方法で映画を作りつづけていくという自分のイメージが無かった。
僕は監督をしようと思った。
自分の企画で、自分のシナリオで、自分でお金を集めて監督をして、東京とオサラバするならしようと決めたのだった。きっと僕は、44歳にもなって、いわば自分探しの旅に出たかったのだと思う。
15年にわたる九州生活と今