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1948年 福岡県出身 魚座 B型 趣味:ルアーフィッシング 家族:妻と娘 |
| 芸能マネージャーから映画プロデューサーになる。脚本と監督も兼ね、一時期東京から九州に拠点を移すなど独自の活動を続けている。 |
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| マネージャーからプロデューサーへ | |
| 若い頃、僕は東京と筑豊を行ったり来たりしていた。 学園紛争もいつのまにか終わってしまい、みんなそれなりに就職をして収まるところに収まった具合で、日本や日本人の未来をまじめに考えていた(?)僕は取り残されたような気分だった。 26歳のとき、グループ71という事務所に入った。 女優の高橋洋子さんが「水谷豊という若い俳優はいい」といった一言が決め手で、グループ71のマネージャーになった。 当時、水谷豊は『傷だらけの天使』というテレビドラマでどんどん人気が出始めていた。 グループ71には、他にも浜木綿子・谷隼人・渡辺篤史・葦原邦子や東映・日活系の悪役俳優など20人あまりが所属していて、ここでの経験がその後の僕の基本的な考え方を形作っていった。6年余りマネージャーを経験した。 僕は、幼馴染の横山博人監督の影響を受けて、俳優のマネージャーから映画プロデューサーへの道を目指した。マネージャーからプロデューサーになるという道を歩めたことを、とてもラッキーだったと思っている。今考えても、自分が最も気に入ったコースを歩んできたといえる。 どこにでも出入りしやすい、あるいは目立たないマネージャーの特権をいかして、映画製作会社、テレビ局、音楽・出版業界などに出入りしながら、才能のある友人たちと出会っていった。 初プロデュース作品となった映画『純』(監督:横山博人)のときは、29歳でバリバリの現役マネージャーだった。有名俳優を抱えてプロデューサーに名を連ねるのではないという強い誇りを持っていたが、実際は、はじめてのプロデューサーとしての現場に戸惑うばかりだった。 以後、十数本の映画を直接・間接に手がけていくが、一本の映画の企画から公開までに関わる仕事が多く、その一本一本に映画の内容とは別の物語があって、このホームページの中でゆっくり記憶を辿りながら書いていきたいと考えている。 |
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| 監督・脚本・プロデューサー・社長を同時に兼ねた | |
| 僕はどちらかというと飽きっぽい。だから新しいことにはすぐに飛びつきたがる。特に他人がやったことがないようなことだと、何が何でもやってやろうとする。 20歳代で映画をつくり、音楽と映画のマッチングを進め、洋画配給会社やテレビ局との提携を他に先駆けてやろうとしてきた。 また、マネージャーからプロデューサーになり、いくつかのシナリオを書き、製作会社を立ち上げ、自分で監督もした。 最初に監督した作品が『雪のコンチェルト』で、このとき僕は、監督・脚本を担うと共に製作会社の社長を兼ねた。 そして、この映画づくりにおいて、結局は社長業を最優先してしまった。このことを、他人からとやかく言われる覚えはないが、僕自身は深く反省するばかりである。 次に監督する機会があれば、自分自身にリベンジするつもりだ。 この作品を公開した後、一年間かけて『酒呑填童子』というオリジナルシナリオを書き上げ、故郷・筑豊に戻ろうと思った。 それもこれも、誰もやったことがない生き方だと思えたからだ。 |
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| いったん東京生活とおさらばする | |
| 1992年の夏の終わりに、突然のように僕は20年あまりの東京生活を捨てて、故郷の筑豊に家族を伴って戻った。 衝動的ではなかったが、誰の言うことも聞かないような強い衝動が東京の磁力を上回った。いくつも理由がある。東京生活のすべてが理由だったといってもよい。 僕は映画を作りたいがために当然のように東京に住んでいたが、長い間生活をしていながら、まったく生活者としての意識を持つ事が無い人間だった。 40歳になったときにはじめて子供ができた。ここから、なれない生活者というもののインストールが始まった。 40歳といえば映画界の中でも、まもなくベテランの域にさしかかろうかという年齢だ。僕には、生活のために姑息な手段を使ったり、ごろつきのような方法で映画を作りつづけていくという自分のイメージが無かった。 僕は監督をしようと思った。自分の企画で、自分のシナリオで、自分でお金を集めて監督をして、東京とオサラバするならしようと決めたのだった。 きっと僕は、44歳にもなって、いわば自分探しの旅に出たかったのだと思う。 |
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| 映画と本とインターネット | |
| 一本の映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』、一冊の書籍『筑豊原色図鑑』、パソコンを覚えてつくった数十に及ぶWEBサイト、映画化出来ていない三本のシナリオなどが、僕が故郷にいる間にやったこと(仕事?)である。 その間に、サボるようにしてルアーフィッシングやキノコを覚えた。釣りもキノコ採りもきわめて逃避的な行為である。 実を言うと、故郷に戻って映画をつくるつもりはなかった。 しばらくぷらぷらしていると、何人かの人に「映画は夢ですものね」と言われたり、地方局のしょうもない情報番組を作っている局員が、高い給料もらって”偉そうなディレクターやプロデューサーでござい!”という態度のアホ面を見て、よし映画をつくってやろうという気になったのだ。 いや、本当は自分と地方の人たちとの価値観や意識の差があまりに大きく、それがストレスとなって七転八倒する激痛を伴った”急性胆嚢炎”にかかり、救急車で病院に運ばれて入院してからだった。 約1年間の用意周到な準備期間を経て、もう一つの物語が出来るような熱いギラギラした日々があり、映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』は完成した。 そして、僕はいまだに映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』に一応のピリオッドすら打てないでいる。 |
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| 今度は何をするつもりなのだ! | |
| 家族を伴い再度上京してからすでに2年半。 今度は何をするつもりなのか、まだよく分からない。 ケータイサイトの画面を見て、なんだか映画のスクリーンに似ているなあなんて思いながら、未来を探っていきたいものだと目論んでいる。 |
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松本廣責任編集 『筑豊原色図鑑』 |
| A4版・オールカラー・200ページ。取材から完成まで1年半。約1,300枚に及ぶ写真と文で、日本の近代化を支えてきた筑豊の今の姿を捉え、いわゆる郷土誌と一線を画そうとした本。筑豊の歴史・自然・文化・祭り・民俗芸能・ものづくりなどを特集し、筑豊4市20町1村をすべて網羅している。 筑豊千人会発行 定価:2.940円税込 |
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